関外
関外でも早くから町並みが成立する。東海道からの横浜道に沿う戸部・野毛・吉田の各町、吉田新田を横切る八丁縄手沿いの長者町、これに石川町と元町を加えると、明治初期には関内を取り巻くようにして、関外に帯状の町並みが形成されていたことがわかる。
貿易商人が集まる関内に対して、地代や家賃の安い関外には、小商人や職人・労働者が多かった。吉田新田の埋め立てが進むとともに、帯状の町が面に拡大する。明治9年(1876)頃には、のちの横浜市を構成する町並みの骨格がほぼできあがった。
図式的にいえば、明治時代の横浜は、豊かな関内を中心とし、その周囲に貧しい関外があり、その周囲に農村が広がるという三重構造を持っていた。
関外地区にはハンカチーフやスカーフの捺染・縫取加工などを行う町工場があり、その製品は関内の売込商や外国商館の手を経て輸出された。また、関外地区は港での荷揚げや輸出用に茶を再製する工場で働く労働者たちの住宅街でもあった。
伊勢佐木町
伊勢佐木町の入口右の三角屋根の建物は横浜館、向かい側は帝国商品館。
両方とも百貨店の前身ともいうべき勧工場。トンボヤ製。
明治42年の開港五十年祭に際して飾り付けられた市街の光景。
吉田橋の方を見る。橋の向こうに富竹亭と武相貯蓄銀行が見えている。
新派を育てた劇場として有名だったが、明治32年の大火で焼失し、再建されなかった。
跡地に横浜館ができる。表飾りから明治29年4月の写真と判明するが、消印は明治37年10月4日。
馬車道から伊勢佐木町へ通じる吉田橋は、明治44年に鉄筋コンクリートに架け替えられた。上田製。