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おさん伝説が生まれた町

おさん伝説

おさんの伝説の色々

埋納大乗経説

神社改築の計画が起こり、大正9年(1920)11月23日、日枝・稲荷両神社の本殿内陣を調べた折、両神社のご神体の下から「大乗経」の木箱が発見されました。(実物は、改築の為に吉田家に保管中・、大正12年関東大震災にて焼失)

 

これは、初代吉田勘兵衛が埋め立ての成就に当たり、新田の鎮護を祈り両社の下に埋納したものです。1説には「万治2年再度の埋立てを身延山に祈願、その結願の日に勘兵衛自ら2部の大乗経を書写し、それを埋納した」とありますが真偽は不明です。


この「大乗経」発見により「この埋納が、おさんの人柱と誤伝されたものであろう」という説です。これは、昭和2年(1927)に吉田家より刊行された「吉田勘兵衛事績」(石原純編)に明記された説で、吉田家としては、大乗経の発見が、人権無視の人柱説を否定する好資料となりました。


この「吉田勘兵衛事績」は、初代古田勘兵衛良信が大正10年3月皇太子殿下(昭和天皇)ご成婚にあたって従5位を追贈されたのを記念して吉田家より刊行された「吉田勘兵衛翁事績」に「大乗経発見等の新事実」を加えたもので、昭和3年の「古田新田古図文書」昭和10年の「吉田新田図絵」とが3部作として出版され、関係者に配布されました。

 

下女 おさん(その1)

初代勘兵衛は熱心な日蓮宗の信者であったので、大埋立ての大願成就を祈願するために、身延山に年詣で(としもうで、願をかけて毎年お詣りに出かける)に参りました。その際、勘兵衛が駿河路を急いだある日の夕暮れのこと、行く手に突如として女の悲鳴が聞こえました。勘兵衛は供の下男等と共に駆けつけて、今しも悪者に辱められようとしていたその若い女の危機を救ってあげました。


その女は名を「おさん」といいました。こうした機縁で勘兵衛家の下女として仕えることになり、彼女は陰ひなた無く、まめやかに働きました。彼女は、明暦2年の最初の埋立てに失敗した勘兵衛にいたく同情していましたが、たまたま、このような大工事には犠牲の人柱が必要だということを耳にしました。かつて駿河路での危難を救われた恩義に対し何かお返しをしなければと思っていた彼女は、万治2年の再度の埋立てにあたり、日頃のご恩に報いるのはこの時と、事業の成就をになって自ら人柱になりたいと申し出ました。


主人勘兵衛は彼女の殊勝な心がけを喜び感謝しながらも、人命の尊いことを説いておし止めたのですが彼女は聞き入れず、白無垢に装い、合掌して人柱となりました。かくてさしもの難工事も完成、大願を成就することが出来たのでした。

 

これが世間に噂されて来た伝説の大要で、昭和11年に刊行された「横浜旧吉田新田の研究」(石野瑛著)にも掲載されています。

 

下女 おさん(その2)

吉田新田の埋立ての大工事の最中のことである。その準備として今の都橋(吉田町先)のあたりから元町の方へかけて波よけの堤防を築いたが、雨風のたびごとにこの堤が壊されて工事が一向にはかどらず、幾度も同じ苦労を繰り返えさねばならず、これにはほとほと困り果てていた。


そこで誰云うと無く「これは海神のたたりだ。このたたりを防ぐには、昔から人柱を立てて患いを除くことになっている」と噂されるようになった。さりとて尊い人命・をむざむざ犠牲にすることも出来ず、思案に困って落胆する毎日だった。しかし、これを聞いた吉田家の下女「おさん」は、「長い間ご厄介になり、何の恩返しも出来ないのは不本意。進んで人柱に立ちます」と申し出た。


驚いた勘兵衛らは大反対したが、彼女の熱意と願望に動かされ、遂に思い切っておさんを人柱として工事を再開した。この勇敢なる人身御供(ひとみごくう)の為か、今度はいかなる暴風雨に出会っても、堤防は破れることなく、工事は思いの外進み、遂に吉田新田の完成をみる事が出来たのであった。


勘兵衛はおさんの徳を深く感謝し、おさんの霊を祀って新田鎮護の神とあがめた。それが今の日枝神社である。故に日枝神社よりは、むしろ「おさんさま」又は「おさんの宮」と云う方が遥かに一般の通りがよい。


これは、昭和5年11月刊行の「横浜の伝説とロ碑」中区磯子区篇(栗原清2著)によります。この書には、次の「巡礼おさん」も、別説として紹介されています。

 

巡礼 おさん

吉田新田埋め立ての頃、現在平楽中学校のある平楽の台地に、巡礼の夫婦が住みついていた。その女房の名を「おさん」といった。彼女は、人が嫌う癩病(ライ病・ハンセン病)とあって外にも出られず、夫だけが丘を下り毎日巡礼してはこの哀れな女房を養っていた。


ある時夫が、吉田家が思案に暮れている話を聞いてきて、女房に寝物語に聞かせたところ「どうせ長くない我が身、こんな病身でもご用に立つものなら人柱となってお役に立ちたい」と熱心に夫に語った。


夫は早速、このことを吉田家へ申し出、かくして人柱のお役に立ったのが、現在の関内駅裏に架けられていた蓬莱橋の際、水門のあたりであったという。
かくして埋立ても成就、不欄にして勇敢なおさんの霊を新田の守り神として祀ったもので、女の名をそのまま「おさんの宮」と称したというお話。

 

芝居 おさん

「おさんの伝説」は、地元の芝居小屋で演じた「おさん」をモデルにした芝居により、多くの異説を生んでいます。


娘「おさん」と出会った勘兵衛がお詣りに行った先も、身延山久遠寺ではなく、信濃善光寺だったり、芝居の作者によって色々です。

盛大なお三の宮の大祭になると、住民のすべてがそれに熱中し、伊勢佐木町の芝居小屋のお客が少なくなるのを嫌い、「おさんの芝居」を1つ加えたと伝えられています。また、境内の池のほとりの架け小屋の「見せ物」にも、祭礼に因む「おさんの芝居」を演じたものもあったということです。


昭和42年に刊行された「神奈川の伝説」(読売新聞社横浜支局編)には、「おさんの伝説と芝居」について、次のように書かれています。

 

  1. 勘兵衛11代目の吉田一太郎さんに、おさんの伝説について訊ねると次のように語られました。
    「わが家におさんの伝説の資料はありません。小さい頃、横浜の劇場にその伝説を題材にした芝居がかかって何回も見に行きました。あるときは、もし芝居が吉田家の名誉をそこなうものなら告訴しようと弁護士同伴でね。
    帰ると弁護士に「あれじゃ無理ですよ。むしろご祝儀を出した方がいい」とすすめられましたよ」

 

これは、同書の筆者が、吉田家の当主にインタビューされた記事として興味があります。なお吉田家では、第2次世界大戦後、吉田新田の埋立てから現在の横浜市中心街に発展した姿を、記録映画として制作されていますが、ここにも「おさん」は現れていません。


このように「おさんの伝説」は、芝居を見た人々によっても、色々と伝えられて来ました。

 

烈女 おさん

明治より大正に入り、横浜1の繁華街伊勢佐木町に通じ、ハマの中心部一帯を氏子とするお三の宮の祭礼の評判に応えたものでしょうか、神奈川新聞の前身「横浜貿易新報」は、大正期に活躍した斯波南史(しば・なんそう)の筆で、お三の宮の伝説の女をモデルにした新講談を掲載しています。
題は「烈女お三」で、大正4年(1915)7月から12月まで130回にわたり連載されました。

 

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当時の喜楽座

 

これを賑町の喜楽座(現在の伊勢佐木町3丁目日活会館の所)の座付作者桂田阿弥笠が、連鎖劇7場に脚色。同じ大正4年9月、市川荒2郎・秋元菊弥一座が同所で上演いたしました。連鎖劇とは、舞台劇と映画とを組み合わせた演劇で、大正時代に流行しましたが、喜楽座での連鎖劇はこれが始めてのものだそうです。


主役のおさんは新派の秋元菊弥、養父の佐藤右近を市川荒2郎、吉田勘兵衛を新井敬夫がつとめましたが、菊弥は歌舞伎出身の人だっただけに、美しいおさんを演じて見せたそうです。

 

この劇を9月11日から開演した喜楽座は、折からの日枝神社の祭礼を当て込んだだけに「初日以来、鮨を詰めたような大入りだった」と伝えられています。
なお「お三」劇は、後に横浜歌舞伎座(昭和7年阪東橋電停前に開場)にても、昭和16年(1941)9月9日より日吉良太郎の率いる日古劇で上演されています。題名は「伝説お三様」でした。

 

烈女お三の大要

芝居とは少々異なりますが、新聞連載の大要を再現いたしました。

 

おさんの父はもと駿河の某藩に仕える武士、わけあって浪々の身となり、江戸へ出て芝金杉商いを営む叔父の世話になりながら寺子屋を開いて生計を立てていました。しかし不幸に、「振袖火事」の名で有名なあの明暦の大火に遭い夫婦ともども犠牲になってしまいました。

 

1人娘のおさんは、芝金杉の牧野家に寄食していて一命をとりとめましたが、両親を失って孤児となったおさんは途方に暮れていました。
おさんはかねて父から「お前は、父がもと仕えていた某藩の同藩士である関谷陽之進と結婚することになつていたが、関谷は上役と衝突して暇をとり、以来消息を絶っている」と聞かされていたので、自家の番頭忠兵衛との結婚を勧めるのをふりきり、風の便りに関谷が4国土佐の山内侯に仕えていることを知って、巡礼姿に身をやつし、はるばる土佐を訪ねたものの、彼は同藩の種田5郎3郎に武術の恨みから暗殺されたあとでした。

 

江戸材木町に木材・石材を営む豪商吉田屋勘兵衛は、後に吉田新田となる釣鐘湾の埋立てを笠恥府に願い出て、明暦2年7月工事に着手しましたが、翌3年5月10日から13日続いた集中豪雨のために大岡川が氾濫、せっかく築いた潮除堤が流されてしまい工事は中断してしまいました。

 

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埋立前図

 

それでも勘兵衛はくじけずに、再度、工事を決意いたしましたが、前回のあのような天災を防ぐには神仏のご加護にすがるよりほかはないと、氏神の赤坂の山王社に詣で、さらに日頃念ずる日蓮宗本山甲州身延山久遠寺へ大願成就の年詣でを行うことにいたしました。


勘兵衛が参諸を終えて身延山を降りる途中、巡礼姿のおさんに出会いました。そこで、おさんは涙ながら「夫婦の契りはいたしておりませんが、夫の仇を討とうと決意、この様な姿で諸国を流れております。只今は身延山を参詣して大願成就を祈願して参りました」と、自分の身の上話を勘兵衛に語りました。


勘兵衛は身寄りのないおさんにいたく同情、「柚すりあうも他生の縁。江戸は諸国の人々が集まる所だから、何時かはあなたの仇に遭うやも知れない。私の家にしばらく身を寄せて時期をお待ちなさい。私も大名家に出入りする身、おカを貸しましょう」と江戸へ連れ帰り、家族のように遇しました。


それから、勘兵衛が出入りする大名屋敷をくまなく訪ね歩いているうちに、小田原藩大久保家の家臣宅に居候している種田5郎3郎」を発見、早速願い出て勘兵衛の助力により見事本懐を遂げることが出来ました。お三は大喜びでした。


お三は勘兵衛に深く感謝、第1回目の埋め立てに失敗後失意の底にあった勘兵衛への恩返しとして、ひそかに人柱となる覚悟を決めていました。
再度の埋立てが決まった万治2年のある日、おさんは勘兵衛に、「このたびの大事業は大変なこととお察し申します。神仏に深く帰依なさる旦那様には必ずや神仏のご加護があるものと信じますが、昔から人柱を立てると霊験あらたかと聞いております。私は両親も家族も無く、先には夫の仇を討っていただいたご恩がございます。その恩に報いたいと思います」と涙ながら訴えました。

 

しかし勘兵衛は、人命の尊さを説き「その志はありがたいが、お箭も若い身空、もっと自分の幸せを考えて長生きして欲しい」と再3辞退したが聞き入れず、守り刀のサヤを払ってノドを突いて自害しょうとしました。
勘兵衛は、おさんの決意が固く、ひるがえすことは出来ないと知り、仕方なくおさんの申し出を受けたのでした。


万治2年9月13日、波打ち際(現日枝神社裏)に仮設された壇上には、この世の塵を洗い清めたおさんが、髪を長く背後にたらし、白衣に身を包んで静座し合掌していました。

 

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吉田新田埋立図

 

日は西に傾き、空は一面に茜色(あかねいろ)に染まり、あたりは徐々に暮れかかって行く中、何処からともなく人々のお題目の声が聞こえてまいりました。
「南無妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」・・・・・・・・・・・・・・・・


やがておさんは立ち上がり、天を仰ぎ、地に伏して、「今、われこの大海に身を投じ、この埋立ての人柱となりまする。哀れこい願わくば神明ご照覧ありて、ご加護を垂れさせ給え」と、高らかに叫び、海面めがけてザンブとばかりにおどり入りました。
波間にただよっていた白衣も、やがて海中に没し消え去りました。


かくして困難を極めた埋立ての大事業も、おさんのけなげな真心が通じたか、寛文7年に、前後1年余の歳月と8038の巨費を投じて、見事成し遂げることが出来たのでした。

 

芝居のあらすじ

おさんは常州笠間藩(現在の茨城県笠間市)の槍術指南番佐藤右近の養女。わけあって養父の元を離れ、吉田勘兵衛方の女中(お手伝い)として住み込み、陰ひなた無く働いていた。


万治2年6月、前日来の風雨で大岡川が決壊する危険な状態となり、村民が集まって思案に暮れていたところ、そこへ日枝神社宮司が来て「卯の年卯の月生まれのおなごを人柱に立てれば、この洪水を防げるが……」と語る。


それを伝え聞いたおさんは、「主家への恩返しと村民の難儀を救うには、わたしが生きながら人柱となるよりほかになし」と人柱を志願。川岸に急ごしらえの祭壇の箭に巫女(みこ)の姿で現れ、神箭にぬかづき、山王の神に敬皮な祈りを捧げ、荒れ狂う大岡川に身を投げて水神の怒りを鎮めた。


その遺徳により、おさんは日枝神社に合祀される。


以上が、前述の喜楽座での芝居のあらすじ。
なお、日吉劇の「伝説お三様」の方は、設定は異なりますが新聞に連載の新講談に近いものでした。


いずれの「お三芝居」にも共通しているところは、主役の「おさん」または「お三」が、勘兵衛方の女中(召使い)であったということだけで、他の年代・背景・登場人物などは作者の筆に左右されています。

 

伝説の考察

このお三の宮日枝神社に残る「おさんの伝説」については、古文書にも何も残っておりません。江戸時代の地誌として有名な、「新編武蔵風土記稿」(文政10年・1827)の、吉田新田の項にも何も記されておりません。

従って、比較的、新しいのではないか?とも推察されます。


「おさん」が飛び込んだ場所も、大岡川河ロ(日枝神社裏手、山王橋のあたり)とするものと、蓬莱橋の西のたもと(現在の関内駅裏)とするものとあります。
後者には、「昔は松の樹が、あたかも並木のように植えられていて、その根本におさんの墓があった」とか、「吉田家ではおさんの木像を刻んで朝タ供養を怠らなかった」というようなまことしやかな古老の話が、前出の「横浜の伝説とロ碑」に伝えられています。


これは、何か眉唾物(まゆつばもの)という気がしてなりません。
そこで、おさんの伝説が、埋立ての大事業にあやかった芝居から発祥したのではないかという説は、多くの人々の支持する所です。
するとこれらは、お三の宮の祭礼などに氏子の見物を当て込んで、吉田新田の中か、その近くの小屋で演じられたものと思われます。


おさんの伝説が、かなり古くから伝えられ、前出の横浜貿易新報に連載された「烈女お三」もこれにあやかったものとみますと、まず江戸末期か明治初期に焦点を合わせることになります。


旧吉田新田の芝居小屋のはしりは、明治3年(1870)今の羽衣町に誕生した下田座佐野松で、厳島神社(弁天社)わきの貸席佐野・松と関内にあった下田座が合併してできたものです(明治15年羽衣座と改称)。


明治9年には今の伊勢佐木町1丁目に蔦座が出来、明治15年には勇座(2丁目)賑町に賑座(伊勢佐木町3丁目)が出来ています。また、あまり知られていないものとしては、山中座・栗田座・伊勢村座というのもありました。


明治20年代になると、前記の賑座・勇座・羽衣座のほかに、賑座の前の両国座(後に喜楽座と改名)それに千歳座や吉田橋先の関内真砂町かどに立派に出来た港座などが盛りました。駿河町(今の弥生町2丁目)にあった横浜座は明治36年雲井座を改称、初興行。今の伊勢佐木町4丁目にあった敷島座が、活動写真から芝居に代わったのは昭和のはじめです。


しかし、これらの芝居小屋で「おさん芝居」が演じられたかも知れませんが、記録としては何も残されていません。
また、お三の宮の祭礼の折に、裏の池の周りに仮設の見せ物小屋が出るようになったのはかなり後のことですし、お三芝居らしき物を演じて伝説にあやかったとしても、伝説の根元とは到底考えられません。


従って、この「芝居が伝説のもと」という説は年代的に矛盾があり、むしろ「伝説が芝居の材料となった」というのが結論でしょう

 

 

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