吉田勘兵衛
現在の伊勢佐木町付近一帯は入り海であり、明暦2年(1656)黒田助兵衛が請け負って干拓したが失敗。万治2年(1659)横須賀の内川新田を開拓した砂村新左衛門・友野与右衛門らは太田・中・横浜各村の土砂を切り崩し、埋め立てを行った。
この埋め立ての資金を提供したのが、江戸の材木商・吉田勘兵衛であり、埋め立て116町歩余は寛文7年(1667)に完成。当初埋め立て地は野毛新田といわれ、その形状から釣鐘新田とも呼ばれた。寛文13年(1673)に江戸から山王権現を勧請して山王社を創建し、吉田新田の鎮守とした。
正徳元年(1711)に吉田家は江戸から移り住み、江戸時代を通じて吉田新田の地主であった。明治3年(1870)には吉田川をはさんで居留地に隣接する1ッ目沼地埋立事業を始めるが、資金的に困難を極め、ウォルシュ・ホール商会からの借入金は政府が立て替えることとなった。
吉田新田を流れる中村川・吉田川・大岡川・日ノ出川は、横浜が水の豊かな土地であったことを今日に伝えている。
吉田新田年表
年号 |
西暦 |
月日 |
内容 |
---|---|---|---|
明暦2年 |
1656 |
7月17日 |
吉田新田の埋立工事に着手する。 |
明暦3年 |
1657 |
5月 |
大雨で潮除堤が破壊され、工事が挫折する。 |
万治2年 |
1659 |
2月11日 |
吉田新田の埋立工事を再開する。 |
寛文2年 |
1662 |
2月1日 |
吉田新田における小作証文が初めて出される。ただし証文の宛先は「新田御中間衆中」である。 |
寛文4年 |
1664 |
|
この年の小作証文より、宛名が「吉田勘兵衛」となる。 |
寛文5年 |
1665 |
7月6日 |
吉田新田南7つ目に「宮屋敷地」400坪を定める。 |
寛文7年 |
1667 |
|
吉田新田が完成する。 |
寛文13年 |
1673 |
9月 |
吉田新田の鎮守として日枝神社(お3の宮)を勧請、獅子狗2体を奉納した。 また、同社境内地に稲荷社を創建し、白狐2体(大正12年・1923年の大震災時に消失)を奉納した。 |